031報恩講

服部了惠

「報恩講」というのは、私たちの、浄土真宗をお開きくださった、親鸞聖人のご命日の法要のことです。親鸞聖人のみ教えをいただく、真宗門徒にとって、報恩感謝の心を表す、大切な法要であります。

『歎異抄』に「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲(にょらいだいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」(真宗聖典635頁)とあります。「報恩の心」とは、物や知識によって得られる「所得の豊かさ」ではなく、この私の「存在の豊かさ」に、気づいていくことではないでしょうか。

外国のある詩人が、こんなことを書いています。「もし、あなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に、雲が浮かんでいることを、はっきりと見るでしょう。雲なしには、水がありません。水なしには、樹が育ちません。そして、樹々なしには、紙ができません。ですから、この紙の中に雲があります。この一ページの存在は、雲の存在に依存しています。紙と雲は、きわめて近いのです…この小さな「一枚の紙」の存在が、宇宙全体の存在を表しています」(ティク・ナット・ハン『仏の教えビーイング・ピース』)

この文章にある「一枚の紙」とは、あなたであり、私を指しているのです。私が生きているということは、私以外の、一切のあらゆるものと繋がって、私として生きているのであります。

毎日毎日、目の前のさまざまなことに、振り回され、流されている私たちですが、それを一番根っこのところで支え、私が私として、生きることを成り立たせている、大きないのちのはたらきがあるのです。この大いなる如来の大悲の中に、私が生かされていることに目覚めたとき、初めて、報恩感謝の生活が開けてくるのではないでしょうか。

030松枯れ

渡邉啓義

昨年の秋、本堂の前にある、樹齢が200年ほどの松の木が枯れました。今又、庫裏の前にある同じくらいの樹齢の松の木が、枯死寸前の状態で、現在樹医さんに治療をしてもらっている最中であります。本堂の前に立っていた松が、松喰い虫にやられて枯れてしまった、惜しいことをしたでは、済まされない感じがします。

1年毎に庭師さんに来てもらって、庭木の手入れを繰り返してきたそのことで、奇麗になった、格好いい庭木に造ってもらったと喜んでいた自分が厳しく問われたことでした。枯れて命終わったその松の木は、毎年必ず芽を出し、やっと大きく伸びたと思ったら、住職に頼まれた庭師さんによって切られ、住職の好みに合わせて形づくられ、その姿を見て良い姿になったと喜んでいる住職である自分には、微塵も、切られた松の木の痛みも、願いも、感じたことが無かったということでした。

切られ、又切られ、台風にも、地震にも耐えて、200年程も、本堂の前に立ち、その下を通って参詣する方々を見守ってきた松、本当に生きるということは、どういうことかを、松自身が身を以って、私が、そのことに目覚めることを願っていてくれたように、思われてなりません。今現にご苦労くださっている法蔵菩薩様の物語が、そのことと重なり合って体の四肢五体に感ずる尊いご縁でありました。自分の本性の無自覚性は、私の命終わるまで毎日続くことであります。

お世話になります。

029ありのままに

鈴木律子

私は座右の銘とか、好きな言葉はと問われると、「ありのままに」と答えています。

近頃、足が痛い、腰が痛い、肩が凝ると言いながら、家事や草取りができないと、不平を言っています。どこの整形が良いとか、あそこの総合病院に新しい医療器具が入って良いと聞けば病院を変えて診療を受け、投薬されるのは痛み止めと胃腸薬それにシップ薬です。痛み止めを飲めば、痛みは和らぎますが胃の具合が悪くなり、とても飲み続けられません。ある時、3箇所の病院の薬を見比べて見ましたところ、同じ薬が処方されていました。

医者に申しますと「その薬はよく効くし、出しやすいので、どこの病院も用いるのですね、胃の調子が悪いときは、飲むのを控えてください。足の痛みは加齢によるものです。正座をしないよう、草取りをしないようにして大切にしてください」と申されたので、即座に正座と草取りは私の仕事ですと申していました。「ありのままに」生きると申しておりますが、先生のおっしゃることもそのまま聞こえず、また、いずれの治療が良いと聞けば耳を傾け、あちらの温泉が良いと聞けばうなずき、「ありのまま」とは私の気の向くまま、気の済むままと、我がままに流されています。

寺の坊守として、聞法の場に居ながら、聞法から一番遠いところに居る私でございました。お彼岸、報恩講と、門徒の皆さんに準備をして聞法の場を用意している私と思い上がっていましたが、私のために準備し用意してくださっている、法話であり聞法の場でありました。

028明晰な眼(まなこ)

飯田隆弘

オウム真理教の事件以来、宗教に関わることは怖いことだという風潮となりました。何故そのようことになったのでしょうか。

「信ずる者は救われる」というどこかで聞いたフレーズによって、一つのイメージが作られ信仰の奴隷となり、あの悲惨な事件が引き起こされたのではないかと思います。

仏教は自覚の宗教であると言われます。一体、何を自覚するのでしょうか。親鸞聖人のお言葉に「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと…」(真宗聖典545頁)とありますが、これは、親鸞聖人の「賢」に対する「愚」という自覚であり、教えにより照らし出された偽らざる人間の本質でありましょう。

また、亀井勝一郎氏の本をめくっていて目にとどまった文章に「信ずることによって、救われたというが、そんなことがありうるだろうか。信仰が自己に対する明晰な眼をもたらすものならば、救われる身であるよりも、いかに救われがたい身であるかが、まず自覚されるはずだ」という一文があります。亀井氏の言われる明晰な眼とは、まさに、親鸞聖人の「愚」の自覚の世界を指しているのではないでしょうか。

同じ人間としての親鸞聖人のお言葉に、ホッとして同時にゾッとするのは私だけではないと思います。

生きることが条理的でなく不条理で、合理的でなく不合理でしかない、思い通りにならない現実に出合う中で、他でもない明晰な眼で自己を問う、そこから親鸞聖人の教えに出遇う歩みが始まるのではないでしょうか。

027お仏供(ぶく)さん

三枝明史

みなさんは毎日お内仏に仏飯をお供えされていますか?

ご存知のように、お仏飯は正しくはお仏供といいます。このお仏供さんの扱いについて、よく次のようなお尋ねを受けます。

「お仏供さんはお供えしなければいけないものなのですか?」

「お寺さんが来られる日にだけ供えることにしてはいけませんか?」

「お供えする数を減らしてはいけませんか?」

「なぜですか?」とこちらが逆に問いかけますと、決まって「わが家では毎日ご飯を炊きませんから」とお答えになります。あるいは、もっと正直に「冷えて硬くなったご飯は誰も食べない」とか「とても毎日続けられない」と言われる方もいらっしゃいます。

「それぞれの家庭の事情の中で、お仏供さんあり方を考えていただければ結構なのです」とお答えしながらも、いつも何か割り切れないものを感じています。

それは質問をされる方のお内仏に対する向かい方(姿勢)です。言葉の中に「仏さんやご先祖には申し訳ないけれど…」というような一言が含まれていないのです。つまり、言外で一貫して主張されていることは自分たちの都合なのでしょう。

本来、ご本尊(尊い存在)として、どこまでも仰いでいくべき仏様が、人間と対等に、いや人間よりも低い位置に置かれてはいませんか。人間の側の頭の高さ、視線の高さが感じられて仕方がないのです。

「お給仕」という言葉が示しているように、お内仏は私たち人間がお仕えすべきものです。日々お仕えすることを通して、仏の教えを身近に学び、「生かされている」自分を確認していくべきものでしょう。

みなさんにお尋ねいたします。

「お給仕」がいつの間にか「お世話」になってしまっていませんか?

「お供えすること」が「与えること」に変わってはいませんか?

026彼岸を願う

水野朋人

この二十日から彼岸の入りです。「彼岸」とは此の岸から彼の岸にわたる、迷いの世界より覚りの世界にわたるということです。

お盆が過ぎてお彼岸を迎えますが、そのお盆にテレビを見ておりましたら、毎年の光景ですが都心より生まれ故郷に帰る帰省の状況を放映していました。

お盆の仕事休みに車の渋滞に巻き込まれ、電車の混雑の中、手土産と荷物を持ち、疲れをなお重ねることが分かっていても毎年帰省される。そこまでして生まれ故郷に帰らなければならないかとすら思える。

毎年かえって疲れることは分かりながらも、なお生まれ故郷に足を運ぶのは何故でしょうか。帰りたいと思わしめるものは何でしょうか。単に時間的なゆとりに因るものではないでしょう。

おそらく生まれ故郷の「懐かしさ」「賑やかさ」を求めて生まれ故郷に帰られるのではないでしょうか。それはこの現実世界の日々の生活がいかに空しく、孤独であるかを物語るものであり、その現実の生活から安心感をたとえ束の間でも獲たいとの願いが故郷に足を運ばせるのではないでしょうか。如何に私たちが安心して生活できる世界を求め、願っているかを現すものではないでしょうか。

仏教ではこの安心して生活できる世界を彼岸といい、空しく孤独の世界を此岸と言われるのでしょう。

帰去来(いざいなん)、他郷(たきょう)には停(とど)まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。‥‥釈迦仏の開悟(かいご)に因らずは、弥陀の名願いずれの時にか聞かん。(真宗聖典355頁『法事讃』)

と善導大師は言われます。彼岸の世界は現実の世界を離れて何処かにある世界ではなく、むしろ日々の生活の空しさ、孤独から開放してくれる世界ではないでしょうか。先延ばしすることなく、空しさ、孤独の世界から開放される世界を浄土真宗の教えにより確かめつつ歩むべき彼岸の入りの時節です。

025夏の出会い

海老原章

長かった夏休みが終わり、まだまだ残暑の厳しさを体感する中にも、お彼岸も間近となり、秋の虫の鳴き声が気持ちだけでも涼しさを運んでくれるようになりました。

暑い夏の季節には、強烈な太陽の光のもとで、昆虫や植物など、夏の生きものたちが躍動しています。秋には、立派な実をつけようとしている果樹や、堂々とした風格、そして生命感に溢れて咲くひまわりの花などは、私自身に積極的な生き方を示してくれて頼もしくさえ感じられます。

また、蝉も夏の生きものとして欠かせないものですが、蝉は、ご承知のように、長い間土の中で過ごし、そして成虫になってからわずか数日間で死んでしまいます。

夏には、やかましい程に懸命に鳴く蝉の鳴き声が暑さを増すようにも思いますが、鳴き尽くしながら一生を終える蝉の生き方は、いかにもはかないものがあります。このような蝉の一生は、周知の事実ですが、こういった生きものの在り方が、改めていのちというものを考える指針になるのではないでしょうか。

いくら短くとも生きものが精一杯生きる姿を目の当たりにした時、いつまでも生きることができるかのように思い、その日その日を無駄に生きてはいないかと、私に問われているような気がします。蓮如上人は、「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候う。仏法のことは、いそげ、いそげ」(真宗聖典874頁)と万事に油断し、生活している私たちを戒められます。梅雨になれば「うっとうしい日が続く」と言い、夏になれば「暑い、暑い」と愚痴をこぼす。人それぞれに季節を受け取る思いは異なりますが、夏はエネルギッシュにいのちが燃える時期でもあります。こういった中で、大事なことを忘れて日々を過ごし、「明日も明後日もある」と油断し、惰性のように繰り返している私自身の生き様に、夏の主役たちが一つの生きる方向を教えてくれたような気がします。

024自心に迷う

芳岡恵基

最近、私の村の周囲にはたくさんの新興住宅が建ち、今まで一度もお会いしたことがない人が、よく寺へお越しになります。そのほとんどが、「お守りを処分してください」とか、「写真に霊が写ったので、始末してください」という用件です。現代を象徴している問題ではないでしょうか。

今日の私たちの生活は外からのたくさんの情報に左右され、流されているように思われてなりません。人間の迷いは外からの働きかけによって、自分の内に眠っていた心が呼び起こされ、迷いの生活が生じ、ますます外に向かって自分の幸せを求めずにはおれなくなっているのではないでしょうか。これらのことについて親鸞聖人は「人間の迷いは、自分の心に自分自身の生活のあり方が惑わされているのであります」と言われております。

私自身もこの問題を通して、自分自身の心の内を気づかせてもらう尊いご縁でありました。

023仏華を立てる

泉知子

今年の夏も厳しい暑さが続いています。植木鉢の花もちょっと水やりを忘れると干上がって枯らしてしまうこともありますし、家の中に生けてある花も永くはもちません。お寺の本堂の仏華は大きな枝も要りますし、何杯か生けなくてはならないので、横着者の私には、全く厄介な季節です。

みなさんのお宅ではどなたが仏さまにお花を供えておられますか。私は夫が住職を引き継いだ頃より、それまで義母が生けていたのを見よう見まねで立てることになりました。山へ行ったり、近所の生け垣の伸びた枝を切らせてもらったりして、一日にかかってやっと立て替えるので、お寺の行事の前などは、仏華が立つとその法要の半分は済んだような気にさえなります。仏前に華を立てるのは浄土の荘厳、仏さまの国を美しく表現するということだそうですが、しかしその華も「そこそこ私もできるじゃないの」という自分自身への評価の手段に早替りすることもあります。

今年の夏に三回忌を迎える夫の父がまだ入院していた頃のことです。報恩講の翌日、松の真の切り方で、ある人からずいぶん叱られたことがあります。高い所に手が届かないので真っ直ぐな木を根元からバッサリ切っていたところを通りがかりに見ておられたようです。入院の付き添いで義母も留守、住職はサラリーマンを兼職ですので、何でも一人で準備をしたかのようにいい気になり、それに真っ直ぐな松で結構それらしい華が立ったと思っていた時でしたので、それですっかりへこんでしまいました。

お花の先生は「上手下手にかかわらず、生けた花には、その人の人柄や価値観、生活や生き方が自ずと表れるもの」とおっしゃいます。「さあどうだ、私が立てました」とばかりに仁王立ちする華と一緒に、また今年のお盆や義夫の法要を迎えたように思います。仏華は私を写す鏡のようです。

022衆生の志願

池田徹

『大無量寿経』には、衆生の志願-いのちあるものの深い本心-がいいあてられ、述べられています。本当にしたいこと(本心)がわからないまま、現実の中を被害者的にやらされているという意識(不満・不安・孤独・対立・抗争)を抱えながら生きているのが我々ではないでしょうか。そういう我々に向かって『大無量寿経』は呼びかけられています。それは一言でいえば、「浄土に生まれなさい」という呼びかけです。どんな人も、いのちあるものすべてが、浄土を求めずにはいられないということが衆生の志願であり、深い本心であると教えられています。

その浄土とは、地獄、餓鬼、畜生のない世界であります。地獄とは、通じあわないこと。共に生きていながら、そのものと心がかよわないということで、大きくいえば、民族同士の争い、人と人とが傷つけ殺しあう戦争という状況をいうのでしょう。

餓鬼とは、欲望の無限追求で、その結果、限りなく他者を利用し、道具化して孤独な生を生きているということです。結局今の自分を愛することができないということで、それは同時に縁あって生きている他者も愛せないという状態です。

畜生とは、自立できないということ。いつも何かに依存する生き方で、長いものにはまかれながら、自分の人生を他人事のように生きている在り方です。

この地獄、餓鬼、畜生-三悪趣-という生き方の悲惨さ、空しさ、無内容さを知る時「だからこそ」と、そうでない生き方を求めずにはいられないのです。私の生き方が、地獄、餓鬼、畜生という生き方であるということを深く知らされることと、浄土を求める、願う心とは同時であり同深であります。浄土を求める心は、私の三悪趣の生き方を教えられる中で発起する新しい意欲、それこそが衆生の志願であり、深い本心であるわけです。

この危機的な時代の中で、一人一人が、衆生の志願に目醒め、その深い本心に順って生きはじめる勇気と決断が待たれていることです。具体的には、「関係」を生き続けていくこと、「衆生」に回帰しつづけていくこと、他者に限りなくまなざしを向け続けていくことだと思います。

「あまねく諸の衆生と共に安楽国に往生せん」という諸仏のすすめ、歴史にささえられながら。