023仏華を立てる

泉知子

今年の夏も厳しい暑さが続いています。植木鉢の花もちょっと水やりを忘れると干上がって枯らしてしまうこともありますし、家の中に生けてある花も永くはもちません。お寺の本堂の仏華は大きな枝も要りますし、何杯か生けなくてはならないので、横着者の私には、全く厄介な季節です。

みなさんのお宅ではどなたが仏さまにお花を供えておられますか。私は夫が住職を引き継いだ頃より、それまで義母が生けていたのを見よう見まねで立てることになりました。山へ行ったり、近所の生け垣の伸びた枝を切らせてもらったりして、一日にかかってやっと立て替えるので、お寺の行事の前などは、仏華が立つとその法要の半分は済んだような気にさえなります。仏前に華を立てるのは浄土の荘厳、仏さまの国を美しく表現するということだそうですが、しかしその華も「そこそこ私もできるじゃないの」という自分自身への評価の手段に早替りすることもあります。

今年の夏に三回忌を迎える夫の父がまだ入院していた頃のことです。報恩講の翌日、松の真の切り方で、ある人からずいぶん叱られたことがあります。高い所に手が届かないので真っ直ぐな木を根元からバッサリ切っていたところを通りがかりに見ておられたようです。入院の付き添いで義母も留守、住職はサラリーマンを兼職ですので、何でも一人で準備をしたかのようにいい気になり、それに真っ直ぐな松で結構それらしい華が立ったと思っていた時でしたので、それですっかりへこんでしまいました。

お花の先生は「上手下手にかかわらず、生けた花には、その人の人柄や価値観、生活や生き方が自ずと表れるもの」とおっしゃいます。「さあどうだ、私が立てました」とばかりに仁王立ちする華と一緒に、また今年のお盆や義夫の法要を迎えたように思います。仏華は私を写す鏡のようです。