022衆生の志願

池田徹

『大無量寿経』には、衆生の志願-いのちあるものの深い本心-がいいあてられ、述べられています。本当にしたいこと(本心)がわからないまま、現実の中を被害者的にやらされているという意識(不満・不安・孤独・対立・抗争)を抱えながら生きているのが我々ではないでしょうか。そういう我々に向かって『大無量寿経』は呼びかけられています。それは一言でいえば、「浄土に生まれなさい」という呼びかけです。どんな人も、いのちあるものすべてが、浄土を求めずにはいられないということが衆生の志願であり、深い本心であると教えられています。

その浄土とは、地獄、餓鬼、畜生のない世界であります。地獄とは、通じあわないこと。共に生きていながら、そのものと心がかよわないということで、大きくいえば、民族同士の争い、人と人とが傷つけ殺しあう戦争という状況をいうのでしょう。

餓鬼とは、欲望の無限追求で、その結果、限りなく他者を利用し、道具化して孤独な生を生きているということです。結局今の自分を愛することができないということで、それは同時に縁あって生きている他者も愛せないという状態です。

畜生とは、自立できないということ。いつも何かに依存する生き方で、長いものにはまかれながら、自分の人生を他人事のように生きている在り方です。

この地獄、餓鬼、畜生-三悪趣-という生き方の悲惨さ、空しさ、無内容さを知る時「だからこそ」と、そうでない生き方を求めずにはいられないのです。私の生き方が、地獄、餓鬼、畜生という生き方であるということを深く知らされることと、浄土を求める、願う心とは同時であり同深であります。浄土を求める心は、私の三悪趣の生き方を教えられる中で発起する新しい意欲、それこそが衆生の志願であり、深い本心であるわけです。

この危機的な時代の中で、一人一人が、衆生の志願に目醒め、その深い本心に順って生きはじめる勇気と決断が待たれていることです。具体的には、「関係」を生き続けていくこと、「衆生」に回帰しつづけていくこと、他者に限りなくまなざしを向け続けていくことだと思います。

「あまねく諸の衆生と共に安楽国に往生せん」という諸仏のすすめ、歴史にささえられながら。