012新住職になって思うこと

本多 益

今年の春は足早に過ぎていこうとしています。梅も桜も自然の暖かさに敏感で、花を咲かせる支度を毎年忘れることなく繰り返してくれます。

先般も近郷の寺院で「親鸞聖人の誕生会」が境内の桜が満開の中、厳修されました。参詣の皆様も、ご法中の方々も春という季節のすばらしさを堂内に感じつつ、親鸞聖人のお生まれになった時代や季節のことを思い起こされていたのではないでしょうか。

私も昨年の3月に「新住職」としての道を歩み始めました。いわゆる「住職の誕生日」となるわけです。前住職から引き継ぐものはあまりにも多く、今だ対応しきれておらず、「住職」と呼ばれることにも抵抗さえ感じている毎日です。

しかし、門徒さんの家を訪問することが少しづつ多くなっていくに従って「変化」も表れはじめました。それは、住職になりたての私をあたたかく「見守ってくださる」方々が周りにたくさん存在するということです。

お葬式やご法事に出かけても、「大丈夫やろか、うちの新住職ちゃんとやってくれるやろか!?」と参詣もそこそこに心配をかけているようでした。前住職からも「はじめから完璧にできるわけがないやろ。まあ、あわてやんとゆっくり精一杯勤めてきたらどうや!」とアドバイスをもらいながらの法務が続きました。

夏の永代経・報恩講・修正会・春の永代経と年間の行事もなんとか前住職の支援を受けながら済ませ、やっと一年が過ぎようとしている先日、門徒さんのご法事の場で法話(感話)をする機会に出合いました。自分自身それまで法話(感話)は苦手でほとんどしてこなかったように思うのですが、今回は自分自身でも「何とか話をしてみよう」と心に決めて、その日を迎えようとしていました。

よく前住職は「話にはポイントが必要だ。」と言っています。だらだらとした話、世間話などは誰でもがすることであって、住職が仏事の中でする話とは違うということです。

そこで今回は季節も春ということで、桜の花が咲く前の「勢い」ということをポイントにして話を考えました。それは何気なく交わす前住職との会話の中から見つけられました。「桜の花は咲いてしまったら勢いはないな!何でもそうやけれど、咲く前の勢いは本当にすばらしい。桜も咲いてしまうと色は白いけれど、咲く前は濃いピンクやな。山の景色が浮き出て見える。」というものです。「えっ!桜の花が濃いピンク?」と疑いながら山の方を見ると、まさしく「濃いピンク」に彩られた桜が「これから咲くぞ!」という勢いを主張をするかのように点在していました。「これや!」と私ははっとしました。

「人生の勢いは、年齢的なものだけではないこと。子どもは子どもの、若者は若者の、壮年は壮年の、老人は老人の、それぞれの勢いをもって生きていくことが大切であること。桜の花のように満開を良しとするより、咲く前の勢いがあってこそ満開があることを忘れてはいけないこと」を。

今は桜の花の花吹雪が舞う時期にもなりましたが、来年の桜の季節に向けての準備が始まったわけでもあります。新住職たる私も、この桜の花の「勢い」に負けないように「住職道」を歩んでいきたいと思っています。

(2002年 4月下旬)