011戦争の記憶、忘れずに

尾畑潤子

「畑を耕して野菜を育てて、それをいただく。何の不足もないなぁ」と、採れたばかりの野菜を抱えて、お寺に足を運んでくださった秋夫さん。畑に座り込むことの多くなった日々にあっても「何の不足もない」と言い切って、この冬にいのちを終えられました。その秋夫さんが、戦争について語ってくださったことを、今アメリカ、イギリスによるイラク攻撃のただ中にあって、あらためて思い起されます。

今から8年前、戦後50年を迎えた年に、お寺の本堂で「元日本軍慰安婦」の女性たちの写真展を催したことがあります。写真の女性たちは、日本軍によってもたらされた苦しみを自らの内に閉ざして、戦後の日々を生きてきました。韓国、台湾、中国など、多くの国の女性たちの告発、証言によって、私たちの日々の暮らしが、闇の覆い隠された歴史のうえにあったことを教えられました。

兵士として戦争を経験した秋夫さんは、だれもいなくなった本堂で、一人じっと写真に見入っていました。そして、「すまんことをしてきたと思う。戦争はあかん、どちらにとってもむごいこと。二度とこんな愚かなことをしてはならんな」と、彼女たちの苦しみを自らの悲しみとするように話してくださいました。私はその言葉を聞きながら、彼女たちのいのちの尊厳を奪い続けてきた戦争は、同時に加害の側も人間であることを見失っていく悲しみの中にあったのだと思いました。秋夫さんはその悲しみを通して、いまを生きる私たちに「戦争は愚かなこと」その根拠を「どちらにとってもむごい」という言葉で教えています。

もちろん、それは戦争の問題に限ったことではありません。日々の生活にあって、人と人との関わりを見失って、差別したり、傷つけたりする、私の現実を「愚かなこと」と問う一点でもありました。

いま戦争のただ中にあって、秋夫さんが身をもって教えてくださった「戦争のすべてを悲しみとする眼(まなこ)」そのことを身にすえて、非力であっても非戦を願う人たちの歩みに、私もまた連なっていきたいと思います。