005オレの葬儀に何人来る?

岩田信行

昨年の暮れ、中堅機械メーカーに勤めるKさん(51歳)の話です。(朝日新聞土曜版〈2003・1・11〉」コラム「複職時代」)

Kさんが会社を代表して、取引先大手商社の元部長の葬儀に参列しました。お供えや献花も少なく、焼香も十分そこそこで列が途絶えて、寂しい葬式だったそうです。Kさんは、亡くなった元部長がまだ現役だった頃、そのお父さんの葬儀を思い出して、気分がいっそう沈んだといいます。その時は、大手商社現役部長の実父の葬儀ということで関連企業の花輪もずらりと並んで、それは盛大な葬儀だったからです。Kさんは、定年まで十年を切っていた自分自身に思いが向かいます。「オレの葬儀には何人来てくれるのだろう」と、ふと、そんなことが思われたといいます。

次の休日、古い年賀状を整理し始めたKさんは、再びそんな思いにとらわれました。500通以上の年賀状を前に、このうち仕事抜きで定年退職後でも、自分の葬儀に来てくれそうな人は何人いるだろう。来てくれそうな人の年賀状に付箋をつけてみたそうです。結果的には結構な枚数になりました。なぜなら迷った時、どうしても貼りたくなった結果で、もう一度見直すと、途端に枚数は減ってしまいました。Kさんはふと思います。「年末の忘年会も、趣味のゴルフもみんな仕事がらみ。本当の友達なんて、一人もいないのかも・・・」と。馬鹿なことをやっていると、我に返ったものの結局その日Kさんは一枚の年賀状も書けずに終わったといいます。

いろいろやっかいな人生ですが、喜怒哀楽、悲喜こもごも、辛いことも多いですが、結構にぎやかな「日常」です。しかし誰しもそんな中、ふと我に返る瞬間があります。そんな時感じる、何ともいえぬ底なしの「孤独感」「空しさ」。それを善導大師は「無人空迥(むにんくぎょう)の沢(さわ)」とたとえています。そして、大勢の中にあってなぜ孤独なのか?その理由を善導は「いつも悪友にしたがって、真の善知識に値おうとしないからだ」と断言しています。

悪友とはだれなのか?改めて、「二河白道(にがびゃくどう)のたとえ」(真宗聖典219頁)を紐解きました。