002愚かさに気づかされていく道

内田龍雄

昨年の暮れ、立て続けに三組の老夫婦の諍(いさか)いに立ち会わざるをえないことになりました。

一組目は、去年の6月、一人息子さんを交通事故で亡くされたご夫婦ですが、お嫁さんとその両親との間がうまくいかないらしく、その責任は「あなたが優柔不断で、ものをはっきり言わないからじゃないの」という奥さんの言葉に始まり、過去何十年かのうっ積を洗いざらい本堂のご本尊の前でぶちまける一幕です。

二組目は、昨年の春頃からリウマチの痛みに耐えられず、辛抱できんのだと訴える主人に、「辛くても仕方がないやないの。それでも生かされていることに感謝せんと勿体ないやないの」と叱責する奥さん。

三組目は、80歳過ぎのご夫婦で、娘さんの嫁ぎ先の報恩講の後でのこと。戦死されたご主人の弟さんの墓を無縁の墓にしてまったことにまつわる信仰上の行き違いの諍い。

この三組の訴えをどちらにも加担することもできずに、じっと聞いていて思わされたことがあります。

それぞれのご主人の方はしばらくすると、第三者である私の前では、これ以上争いあうのは体裁も悪いと思うのでしょう、鉾を収めようとされるのですが、それは決して問題が解決したわけではありません。ですから時には徹底的に言いあうのも必要なのでしょうが、なんといっても大事なのは、この諍いの根元は何から来ているのかを、仏様の教えに触れることを通して見つめていくことではないでしょうか。

そこから見えてくるのは、自分自身の勝手さであり、そのことに気づく以外には諍いから生ずる苦悩の開放はありえない、ということです。この三組の夫婦との出会いは、私自身が日頃自分を中心にして生きようとしているために苦しんでいる愚かさを知らされる、尊いご縁でありました。